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東北文化友の会会報 まんだらvol.29 『やまがたレトロ館を取り巻く活動』 山形歴史たてもの研究会 会長 結城 玲子

誰にでも忘れられない景色がある。それは、幼い頃に見た空の色だったり、旅先で見た一本道だったりする。忙しい日常の中でそれらを思い出すことはないが、ふとした折りに脳裏に浮かんできて心を癒してくれる。
小学生だった頃、東京でオリンピックが行われたことにより高速道路が空を走り、高層ビルラッシュが始まった。東京タワーから見下ろす景色は、スモッグにかすんだ近代的な街並み。「やまばと」に乗って東京へ行くと、未来の近代日本の姿が見えた。東北はその「近代化」に遅れたが、それによって恵まれた自然景観が残った。今にして思えば、東北は素晴らしい「たからもの」を手に入れたことになる。日本の経済発展の中で私たちは一途に働き、「やまがた」という故郷で癒された。山形で暮らす立場になると、夏の暑さはさることながら、冬の寒さと雪が身体にこたえる。しかし、それには代えられない良さがある。
平成8年、山形で建築にたずさわる仲間に誘われ、建物を取り巻く環境について考える「やまがた環境研究会」が始まった。山形にも高層ビルが建ち始め、古い建物がなくなり始めた頃だ。と言っても、一体何をなすべきか方向はなかなか定まらず、それぞれが愛する建物を見つけては訪ね歩いたり、所有者と話をしたり、場合によっては雨漏りを直したり、行き当たりばったりの活動をしていた。行動はばらばらだったが、共通するのは古い建物を愛する気持であったと思う。そうこうしているうちに、私達にとってショッキングな出来事が起こった。山形市中心部に位置する旅篭町の歴史ある旅籠が、あっという間に解体されたこと。道路拡幅の計画があった訳でもないのに、諸事情によりとにかく消えてしまった。私達は「何かしなくては」という気持だけはあったが、結果的に何もできなかった。これは苦い経験として残り、その後の活動に大きな指針を与えた。

その後私達は、県外から建造物保存に関わっておられる方を招いて話を伺ったり、県内のあちこちを訪ねて古い建物を探し出し、リストアップする活動を続けていた。しかしそれだけでは消えゆく建物を守ることはできない。また、「そうした建物を保存する必要があるのか」という意見もあった。会の活動はまとまりを欠き、悩みは深まるばかりだった。
そのようなことを繰り返す中で、やっと一つのことがまとまった。山形市内に残る古い建物を市民に知らせることだ。まず、身近にあることを知ってもらおう。そして、その良さに気づいて貰うこと。そのためには簡単な地図を描き、建物を絵として挿入する。絵は一人一人が分担して描く。わかりやすいイラストマップであるが、その建物を印象づける正面図としてイラストを描くことになった。そこからの活動は目標が定まったためか、一気に突き進んだ。イラストは結果的に、手がきの図面を長年描き続けてきた私の父がまとめて描くことになり、絵地図の裏には私達の思いを込めた文章を合作で掲載。初版印刷のための資金集めを行った。また掲載する建物の所有者を訪ね、事情を話して掲載を了解して戴いた。この作業は楽しくもあったが、建物を維持するそれぞれの立場、思いを知ることになり、多くのことを考えさせられた。
こうして平成13年の9月、絵地図は完成した。お世話になった方々に配布し、マスコミにも取り上げられたので問い合わせが続き、文翔館に置かせて戴くことが決まった。以降、版を重ね、絵地図を置いて下さるところも増えて現在に至っている。絵地図は観光に訪れた方々を通じて全国に広がり、私達と同じような活動をしている方たちが各地にいらっしゃることを知った。「札幌建築鑑賞会」「旭川の歴史的建物の保存を考える会」「いわき歴史建築活用委員会」等の方からアクセスがあって山形にいらして戴き、街並みを案内したり、意見を交換する活動が続いた。それぞれ独自の活動をしていらっしゃり、お互いに学ぶことがあった。
絵を描いた父は本格的にペン画に取り組み、細かいディティールまで詳細に描くことを続けた。そして私達は、絵を多くの方に見て戴くべく県内各地で原画展を繰り返し開催した。絵は写真と違い、フリーハンドの線は優しさと暖かさにあふれている。文翔館での開催を皮切りに地元に密着した銀行や郵便局のロビー、公民館、旧郡役所、温泉旅館などで小規模の原画展は行われた。それを受けて研究会では月に一回地域めぐりを続け、写真に記録したり、所有者に建物に関する話を伺ったりする活動を継続している。記録した写真は父の元へ届け、すぐに絵として描かれた。振り返ってみると、絵を描くことで活動に道筋が付き、楽しく活動を続けることができたような気がする。こうして平成16年、研究会は「山形歴史たてもの研究会」と改称し、新しい会員を迎えて、地域めぐりと記録を主体とした活動を行っている。

山形県に初めて鉄筋コンクリートの建物ができたのは、おそらく大正末期だと思われる。また、初代県令三島通庸によって明治初期に木造の擬洋風建築がもたらされ、大火で消失したとは言え、その影響で洋風建築も多い。蔵が多いのは言うまでもない。これらが今、耐震構造、素材の劣化、都市計画、遺産相続問題、所有者の高齢化等々によって存続が危ぶまれている。取り組むべき課題は多いが、市民、行政といった立場にかかわらず皆が考え、取り組むべきものと考える。何よりこれらは個人を超えた地域全体の資産であり、地域景観に深みと知性を与える付加価値の高いものなのであるから。また、歴史的建造物はその町の生き証人であるが故に、その場所にそのまま存続することが望ましい。そして建物単体が残ればいいというものでもなく、周辺空間がさらに景観の質を高める。そうした空間を有する町は、誰からも愛されるに違いない。
先日新庄のまちを探訪した折り、雪の町でかつて民俗学の高いレベルの討議が行われたことを知った。昔、学生の頃学んだことが自分の身近で実践されていたことに気づき、「これからでも遅くはない、市民皆が考え質の高い地域づくりをしていかなければならない」と、心を新たにしたのである。私達の活動をペン画で彩ってくれた父は、県内の古い建物約350点を描き、昨年他界した。これらの財産をいかしながら、また新たな活動をして行きたいと思う。