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山形新聞 1999月1月21日 提言 結城玲子・景観デザイナー 『「山形らしく」あるために まちの個性 住民の手で』

山形らしさって何だろうか。山形県は全国でも地味な田舎のイメージがあるらしい。確かに山形は個性に乏しく、自己アピールが上手とは言えない。県民自体、その良さに気付いていないと言えるかもしれない。たいてい、県内どこへ行っても「田舎でいやだ。だから人が来ない」と言う。そして都市化を求めることが多い。広い道路を切り、大型施設をつくる。その結果、一見都会的であるが没個性的、かつ画一的なまちに変ぼうしてしまう。非常に残念なことだ。
まちづくりということばが聞かれるようになったのはこのごろのことだ。かつてそれは市民のものではなかった。そのまちの良さというものは、都会から人が来て調査し、その報告書に基づいて気付かされるものではない。まして、そうした人たちによってつくられるものでもない。地元の人が一番良く知っているはずだ。生まれた時から眺めてきた景色、人とのかかわりといったものが最も大切であり、それを地域の個性というのではないだろうか。
私は山形市に生まれ育った。周囲の山なみは脳裏に焼きつけられた、ふるさとの原風景だ。暗くなるまで遊んだ神社や路地、友達や近所のおばちゃんたちが私にとっての山形そのものだ。私の友人たちも久々に会うとみな同じことを言う。にもかかわらず、そうした最も根源的な大切なものを切り捨てて、まちづくりが行われているように思えてならない。なぜ無理に都会化する必要があるのだろうか。山形県が山形らしくあるために、私は次のようなことを提案したい。
まず、第一に徹底した環境保全、景観保持を行う。美しい山並みや、街道沿いの家並みなどは最も山形らしい景観である。それらは県民自らが保全に対する明確な意識を持ち、行政が予算に組み込まなければ守って行くことはできない。また、山や川への産業廃棄物の投棄や水質汚染、土壌汚染に対しても調査、対策が必要だ。そうしたことはすでに、ボランティアや募金、寄付で対応できる範囲を超えてしまっている。
山形市のしにせ旅館の消滅は、つらい出来事であった。歴史的に親しまれてきたものが、いとも簡単に駐車場になってしまうことが、現在のまちづくりの在り方を象徴している。古いものが消え、道路が広くなり、ビルや駐車場が増えていく。なんて味気ないことだろう。人口増加の見込めない本県で、山形駅西口再開発ビルに象徴される大型のビルなどは、一体だれが利用するのだろうか。むしろ街全体を低層化し、どこからでも山並みが見えるようにしてはどうだろうか。都会をまねただけの整然とした街並みから、本質的な美しさは感じられない。
少子化、高齢化は避けることのできない本県の宿命である。ならば、それに見合ったまちづくりをすべきではないのか。経済効果最優先の社会資本整備は終わった。これからは、そこに住む人にとって暮らしやすい街を模索しなければならない。それが結果的に観光客にとっても魅力あるところになるのだと思う。
そうしたことを考えれば、第二には福祉優先のまちづくりをあげたい。広い道路は、車にとっては確かに便利だが、次の世紀にはもう車社会から脱皮を図らなければならないだろう。車線を広く整備し、車道との間に植え込みを施し、車線との完全分離をはかる。安心して歩ける街が目標だ。そのためには、床低、低速、低公害、低料金の公共交通機関を充実させる必要がある。そうすればまちにも人も戻ってくるのではないだろうか。そうしたことにも十分な予算が欲しい。
これらは一つの提案であるが、県全体としての基本的な考えが見えてこないのが現状だ。何にでも大金を投入できる時代は終わった。山形県の在り方として県民一人ひとりが本気で考え、話し合い、基本的合意を得ることが必要なのではないだろうか。